今から説明するのは西洋画と中国画における「空間」の解釈の違いです。
一方で東洋画、特に中国画では公式には物事の真髄を描くために、本質的なもの以外は描かず、そのために絵に空間が生まれたと解釈されています。そこには道教や儒教といった人生経験豊富なアジアの賢者特有の、捉え所がなく抽象的で中国画をより神秘化させるような仮説が沢山あります。そのため若い西洋人の芸術家には理解し難い部分が中国画にはありますが、僕もそもそもは西洋の観察に基づく人物画からキャリアをスタートしたので、そういった外部の人達にも理解できるような文脈で中国画を解説することが出来ます。
西洋画では芸術家はパースや解剖学、光源などを活用して2次元の平面に3次元の空間を表現します。それらはすべて実際には起こらなかったフィクションかも知れない宗教的なイベントが、あたかも本当にあった話であるかのように観衆に捉えてもらう為に「説得力」がある必要がありました。人々は説得力がある事と事実を混同する傾向がありますが、そもそも嘘はフェイクニュースのように人を騙すために説得力があるように意図的にデザインされているので、説得力がある事と事実であることは常に同義ではありません。しかしながら西洋画では人々のこの傾向を有効活用しています。
10年間の大写意の花鳥図と山水画の練習の結果、僕には中国画が技術的にもコンセプト的にも非常に逆説的なものに見えてきました。結論から言うと中国画は絵そのものではないものについて、もしくは最も描かれていないものについて描かれています。中国画はそこに描かれていないものが、描かれているものに擬態しているのです。一見勿体ぶった言い方のように思えますが、後述の理由でこれが中国画の一番正確な描写に思えてくる筈です。中国画の大家の作品は比較的短時間で簡単に、何気なく描かれているように見えるため、観衆に中国画が西洋の油彩よりも簡単そうだという誤解を与えます。僕も西洋画から中国画に転向するまで同様の誤解を持っていました。僕は自分自身の観察に基づいたウェット・オン・ウェットまたはアラプリマの油彩の人物画の技術がかなりのレベルにあるという認識があります。そしてアラプリマの人物画は西洋画の中でも最も難しい技術の一つです。なので僕にとって中国画を文化・歴史的観点から比較した際の西洋画の優位性を考慮した場合、必然的に中国画の技術は西洋画のアラプリマよりも習得が容易になる筈でした。
そこでかなり悪戦苦闘しました。最初の頃は先生の描いた初心者向けの習作を模倣するのさえ苦戦しました。そして先生はまともな中国画家になる為には40年の修行が必要とさえ言いました。最初は誇張かと思いました。そして中国画は見た目通りではないことに気づき始めます。僕はしばらく中国画の技術面の深淵さを認識していましたが、徐々にコンセプトがシンプル過ぎるような違和感を感じました。なんというか中国画を描くのに必要とされる技術と比較して西洋画にあるような絵画の象徴性やメッセージやコンセプトの深みのようなものが足りないようなアンバランスさがありました。
中国画は技術的には明らかにまぬけな人には向いていませんが、何故こんなにも多くの大家の中国画作品が花鳥図や山であるといった純粋に装飾的で非政治的なモチーフなのか、例えばそれが平均的な中国人が如何に政治的な人々であるかを考慮に入れると説明がつかない事に気がつくと思います。そこで僕は隔月で日本と上海を行き来しながら中国画の秘密を理解しようと試みました。
僕はまず中国で最も賢い人々がどのような形で顕現するのか想像してみました。彼らは政治家でしょうか?起業家でしょうか?もしかしたら芸術家かも知れません。僕は孫子の兵法を読んでみました。するとどういうわけか当時の僕に最も刺さった文章は「本当に強い者は勝負が起こったことさえ分からないほど当然のように勝つので後世に語られない」という部分でした。この解釈は非常に興味深いです。考えてみれば中国人が好きな古代の戦争の話は大抵が少数精鋭で大群を蹴散らす大番狂わせで、人々はそれを可能にした将軍が如何に賢く抜け目がないかを称賛します。しかしより洗練され抜け目のない筈の、あまりにも順当で、一方的で物理的衝突を伴わない戦いについては殆ど語りません。
勝てば官軍、負ければ賊軍という諺が中国にはあります。中国では歴史を通じて革命で前王朝が崩壊する度に、当時の支配層のエリート一族が全員処刑されるというイベントが恒例化していました。中国の歴史上最も長く続いた統一王朝は唐王朝で289年続きましたが殆どの統一王朝は200年保たず、最初の統一王朝である秦に至っては15年で終わっています。ですから中国の人々は時の王朝はあくまでも一時的なものだという認識がありました。人々は政治的に振る舞った結果、繁栄することを信じて意図して政治的に振る舞います。しかしもしある人が自分の世代の繁栄を、いつか負けて賊軍として処刑されるリスクを取りつつ最大化する一方で、またある人が出世のチャンスを与えられつつも、子孫の生き残りを考えて目立たない生き方を選択した時、両者のうちのどちらがより政治的だといえるでしょうか?
僕はこれは興味深い質問だと思います。多くの戦争の英雄の子孫が今日まで生き残ることが出来ませんでしたが、一般人である我々は実際に今日まで生き残っています。もし過去の失われた戦争の英雄の家系が最も政治的な一族であったとしたら、実際に今日まで生き残った我々はどれほど政治的だと言えるでしょうか?
非常に政治的な人々は常に官軍に属しています。しかし彼らは万が一賊軍になった時のことを考えて、政治的混乱からの処刑や刑罰を避ける為にあまり出世することを望みません。ですから彼らは目立ちません。すると彼らは表面上は非政治的に見え、政治的混乱などにも気づかないふりをしますが、不思議なことに肝心な時には常に歴史の正しい側に立っています。
仮説の中で最も賢い人々がどのように振る舞うかを論じるのは難しいです。なぜなら彼らの知性は我々の想像の上をいくので、そのような知性を持った彼らの振る舞いもまたその定義上、我々の想像の上をいきます。しかしながら僕にはこのような仮説があります。非常に鋭敏な人々は少なくとも努めて平均的に見えるように擬態しており、あまり鋭敏ではない人々は自分を実際よりよく見せようとします。私たちはあまり鋭敏ではない人々が自分を実際よりよく見せようとするのに気付きます。何故なら彼らの擬態は十分に綿密ではない為です。しかし非常に鋭敏な人々が平均的に擬態しているのを見つけようとする時は難しいです。何故なら彼らの擬態は私たちのような一般的な知性の持ち主には気づけない程度には十分に綿密にデザインされている為、私たちは彼らを見つけることはできません。そして一般人に努めて擬態している超越的知性の持ち主の非存在を証明することは二重に不可能です。何かの非存在の証明が悪魔の証明と呼ばれていることには理由があります。私たちが既に一般人に擬態した超越的知性の持ち主に囲まれている可能性の方が高いことに気づきましたか?彼らが一般人に見えるのは彼らの知性が一般的だからではなく、私たちが彼らの擬態を見抜くことが不可能という事実の為です。
ですので僕は個人的に中国の人々や芸術を評価するときに明らかな知性のサインよりも普通に見える人々の微妙な違いに興味を持つようになりました。
また僕は中国画の題材には龍や鳳凰といった汎用的で無難なシンボルを除いて殆ど特定の宗教的または政治的サインやシンボルがないことにも気付きました。ちなみに龍は男らしさの象徴で、鳳凰は女らしさの象徴です。何故中国画には古典的な西洋画にあるような秘密の宗教的または政治的なシンボルが欠けているのでしょうか?僕はこう考えます。誰がが自宅の客間の壁に掛け軸をかける時、その掛け軸の持ち主の政治的志向が客人にバレないようにしておかなければ、肝心な時が来た場合に歴史の間違えた側に立たされることになりかねません。僕は中国画には秘密の宗教的または政治的なシンボルを描いた作品もあったことを確信していますが、それらは単に文化大革命といった不適切とされた芸術や文学が検閲されるような政治的イベントを生き残れなかっただけだと思っています。何故誰かが政治的に振る舞おうとするのかを推測すれば、それはより繁栄しようとしたからと言えます。しかし政治的な作品が政治的なイベントを生き残れなかった一方で、花鳥図や山水画といった何気なく描かれたように見える装飾的で非政治的な絵が生き残った事実を考慮すると、どちらの絵が実際により政治的だったといえるのか疑問に思わざるを得ません。中国画は一見、非政治的です。しかし非政治的に見えるというのは実は高度に政治的である症状の一つなのです。そして中国画の本当の美しさを評価する為にはその絵が何についてなのかだけではなく、何についてではないのかに注意を払わなくてはなりません。そしてあなたが正しい文脈を理解すれば、このように非政治的に見える中国画の中に政治的混乱に次ぐ政治的混乱の痕跡を見出すことができます。
そういった文脈で、中国画における「空間」というのは非常に重要です。なぜならこの空間こそが中国画のアウトラインを定義するからです。中国画は描かれていないものについて描かれています。誰かが言うように雄弁は銀、沈黙は金です。これらのことが僕にとっての中国画を逆説的に見せます。長い政治的な混乱を生き残った絵は何気なく描かれたように見える最も非政治的な絵でした。そしてその様には見えませんが、これらの絵が今日まで生き残った事実が実際問題としてこれらの絵を最も政治的な絵にします。この説明の意味が西洋の若い芸術家に理解できることを望みます。そこに何がないのかを説明するのは難しいです。何故なら私たちは何かの不在を逆説を以ってのみ説明出来る時があるからです。それはバイオレット(紫色)が黄色の不在であると述べるようなものです。それは一番それではないものの文脈で説明出来ます。バイオレットは全く黄色についてではありませんが、同時に黄色についてでもあります。

油彩による人物画と中国画
Figure paintings and Chinese ink paintings
English description is in my blog post #1. The difference in interpretation of space between Western art and Chinese art.





























